milo23の『何でも食うよ。』

2020.5.25から再開。独白を綴っていこうかなとか思ったので。

ゲド戦記

ジブリ作品は「もののけ」以来である。
それは何故かといいますと、宣伝を見る限り、惹き付けられるものがなかったからだ。
ところが今回の「ゲド」には「何か」を感じた。
ほどほどの期待感を胸に、映画の日の翌日のレイトショー。見てまいりました。
感想を一言でいうと「すっきりしていて良かった」ということになるが、いろいろと能書きを書きたいので書いていこうと思う。


主人公「アレン」が精神のバランスを崩し、ココロの"闇"に捕われ、父親を殺害する。
これを受けて「父殺しの話し」と巷で言われているのだが、本筋とはハッキリいって関係ないと思う。
でも、なぜこのシーンがあり、それが必要なのか?
それは、監督である宮崎吾朗氏の"意志表示"以外のなにものでもないと思う。
勝手な推測だし、他の意見を知らないけれども、多くのひとがおそらくは指摘するであろうほどにわかりやすいメッセージで、彼は偉大(ということに世の中ではなっている)である父・駿氏へのコンプレックスと決別を明示したのではないかと思うのである。それをしないと、彼の中ではたぶん、先へ進めなかったのではないか?
それは大変な勇気だと思う。
踏み出した一歩はその足に勢いをつけたものの、結局は理想の父親像であり、家族の絆でありを提示しただけに過ぎないように思う。
でも、それが素直に好感を持つことができたのは、世の中の歪みを予め明示したからだと思った。


訪れた町の城壁の強調された"赤"=もちろん血の色。


偽りの衣を売るまじない師のセリフ「ものはそこにある。いつわりがない」


自暴自棄な主人公。切れる若者。


顔に傷をもつ魔法使い「ハイタカ


顔に火傷を負っている少女「テルー」


大切なメッセージは序盤にちりばめられていた。




やはり、みんな気付き始めている。
世の中のバランスがおかしな方向へ進んでいっているということ。
それを作ったのは、その世界を作ったのは、紛れもない人間の"業"であると。


あるものをそのままに受け入れず。
"死"さえも受け入れないその業。


いつしか、みな「本当の名前」を忘れてしまった・・・


人の醜さをシンプルに見せつけてくれるものの、結局は真実を見極める揺るぎなきココロに救われる・・・
とっても大きな作品だと思いました。


もう一回みてもいいと思います(☆5)

追記:この作品で描かれたように"彼"の偉大なる父は本当に死んだままであって欲しいものです・・・