milo23の『何でも食うよ。』

2020.5.25から再開。独白を綴っていこうかなとか思ったので。

マッスル・ハウス3 in 後楽園ホール

なんとなくエボケーな正月の締めくくりはマッスルの初観戦。
映像を見ている上ではかなり面白い興行だという印象を受けていたので期待に胸が膨らむ一方、財布の中身は縮まる一方である。ぅぅぅう〜身震い。
基本は2部構成。
前半は某汐留テレビの大喜利長寿番組のパクリ。
オープニングからゲストのネタ、そして大喜利を再現。爆笑。
ゲストにはえべっさんとNOSAWA論外&MAZADAのコント。絶妙。
大喜利はいつもの4人+酒井一圭HG。よくできている。
そのネタでプロレスの試合中、乱入して一言というのがあって、試合はゴージャス松野がひたすらやられる。
ふらふらな松野さんを見て感銘を受け、最後まで試合をみせ最後に松野がひとこと。
「プロレスとかけて お笑いと説く(そのココロは?)どちらもウケがすべてです」
うまいと思ったが、それと共にちょっとおっかないとも思った。


この問答、プロレスの「受け」とお笑いの「ウケ」をかけているわけだが、いまのプロレスは「受け」ではなく「ウケ」のほうに重点を置いているのではなかろうか?
もっとも全部というわけではないのだが、それって俺としては違和感を感じるというか、なんかさびしい。


いまのプロレスって、「観客の手のひらで選手たちが試合する」ような感じがするのだ。
昔のプロレス、特に猪木は「観客を自分の手のひらの上に乗せている」ような感じがする。
正直言って俺は猪木の試合を直撃したわけではないのだが、伝え聞く話と、実際に猪木に遭遇した2度の体験から、「周りを引き込むなにか」を発散している存在であると認識している。


大衆娯楽に望むことって「非・日常」だと思っている。
自分でもできるようなこと、できるように見えてしまうことにわざわざ銭を払うやつはいない。
実際には俺たちにできなくても、そういう説得力を発散している人が少ないからなのかと思う。
みな、自分の世界で手一杯で客観的視点をもてないのではないかと。


もう、本当に繰り返しになるけど、興行というものはお客に見られているからこそ成り立つのであって、その「見られている」という意識をプロならば強く、本当に強くもって欲しい。


話が脱線したのでマッスルへ戻る。
休憩を挟んで後半。
翌日のドームの試合を意識しての大日本との対抗戦。
今までのプロレス的な流れをうっちゃる。
対抗戦はいちおうやるのだが、いかんせん体格さも力量も差がありすぎる。
3連勝で大日本勝利・・・ってマジか!?
その後の展開の強引さにはアルコールの勢いも手伝って、かなり笑った。
ほんと、面白かった。しかし・・・


今回のマッスルは悪い意味で完成しているように見えた。
今まで、映像でみたとき感じた「ライブの危うさ」というものを感じることができず、スケールが小さくなったような気がする。
本当に武道館でやるならば、大きな小屋で魅せるという意識を早い段階から持たなければ、ハコに負ける。
その瞬間から評価はマイナス方向へ変化する可能性がある。


コンテンツとしてのマッスルは可能性は大きい。
実際に観客動員も増えているようだ。


しかし、これは「プロレスを中心に据えているようでそうではない」
プロレスという材料を元にした新しいエンターティメントだと思う。
プロレスを揶揄することで成り立っているという基本的なことを見落としてはいけない。
決して、彼らを否定するわけではないが、マッスルはジャンルとしてのプロレスの基盤がしっかりしていればこそより輝けるのではないかと思う。


彼らはこれから大きな壁にぶつかるような気がしてならないと思った初観戦となりました・・・☆4