milo23の『何でも食うよ。』

2020.5.25から再開。独白を綴っていこうかなとか思ったので。

今回の地震での自分の行動記録。

3月11日 14:46に東北・三陸沖を震源とするマグニチュード8.8の地震が発生。
観測史上最大であり、世界的にみても5番目に大きな地震だったということ。
当方、台場の会社内、11階にて揺れに遭遇。
1994年10月4日の北海道東方沖地震を阿寒湖にて体験したが、そんな記憶すらふっとぶほどで、とにかく「慌てない」ことだけを心がけた。
会社内は機材も多かったが、当時、社員も多く在籍し、一部の棚は崩れたものの、大きな破損などはなかった。
しかし、機材室やテープ倉庫は惨憺たる状態ということを聞く。
揺れからしばらくして、台場の火事のことを知る。
すぐさま、奥さん&自分の両親&妹&奥さんの両親に電話したがつながる訳も無く、一斉メール。先日の衣装合わせで連絡先を聞いておいてよかった。
30分くらいして社長の指示で「屋外退避指示」が出たので外へ。
外にでると、火事の建物からかなり離れているにも関わらず焦げ臭いにおいがかすかに伝わる。
約2時間、そとで待機。
この間に、両親と奥さんの両親からは無事のメールがくる。が、奥さんからはない。
mixiのメッセージなど、あらゆる方法で呼びかけたが、よくよく考えるとそういう手段に気付かない人でもあるので、連絡を待つしか無いと腹をくくる。
他のことに関しては、その間、ツイッターでの情報収集がかなりの役にたった。
寒さもあって、ビル全体の退去命令が解除になり、ビルへもどる。
鉄道の復旧を見込んで会社に待機していたものの、ゆりかもめはともかく、りんかい線の復旧目処が見えてこないこともあり、会社宿泊の方向に傾く。
19時頃。
全然連絡がとれなかった奥さんから、ようやく「無事メール」が届き「歩いて帰る」ということ。「留まれ」と連絡したところで、すぐには伝わらないだろうから、帰宅することに。
1階に降りたが、そこは野戦病院のよう。
けが人こそいないが、帰宅できない人たちが暖をとるため、建物の中に溢れていた。
外は海ぞい特有の強い風がふく。とにかく水から逃げようとの思いが強かった。
20時。
長時間歩行に備えコンビニ。
長蛇の列。保存のきく食料と防寒具が既になかった。
20時20分。
普段は17時か18時で歩行者は通れなくなるレインボーブリッジが通れるということで、歩いて渡る。初めての横断。
21時渡りきる。橋の上はかなり寒かった。
iPhoneのマップ機能でルート確認。
ツイッター上で大江戸線の復旧を知る。
田町経由で赤羽橋。
東京タワーの先端の電気が消えている。
乗車はスムーズも、六本木辺りから混み始める。
新宿につくころにはすし詰め。しかし、だれも文句をいうやつはいない。
東中野についたのが23時ごろ。電車のおかげで予定より早く到着。
テレビでいろいろな情報を再確認し、ことの重大さをさらに認識。
余震にそなえ徹夜を決意し、奥さんを寝かす。
もちろんガスの使用は禁止。
朝型交代で睡眠。結局居間で1日過ごす。
友人の芝居はキャンセル。
日中に風呂に入る。ガスは止まってなかった。
家の外周を見たが無傷。
断続的に睡眠。
近所のスーパー&コンビニからインスタントラーメンと菓子パンが消えた。
新聞を買ったが、活字を読む気にならない。
終日、ツイッター for iPhone。文明のありがたみ。



とにかく。
今、できることをやるだけだ。
週明けに募金しようと思う。
T-ポイントも募金しようと思う。

ネットで見たが、T-ポイント募金の為にレンタルしまくるっていってたけど、だったら、そのお金を募金してはどうだろうと思ったけど。

今できることは、寝ることと節電だろう。
コレ書いたら、すぐパソコン切ってiPhoneに切り替えます。