milo23の『何でも食うよ。』

2020.5.25から再開。独白を綴っていこうかなとか思ったので。

2週間目

何事もなければ、この日からプロ野球が開幕。
ダルビッシュと涌井の投げ合いや、吉見とチェンがいない中日の開幕投手はなんと○○!とか、そんなこんなで大忙しの2011年が始まる・・・ハズだった。


既にご存知の通り、あの地震が、津波が、日常を根こそぎさらえていった。


昨日まであったもの、そこにいた人が今はもういない。


私は東京にいる。
関東の余震や買い占め&放射能問題、節電によるスーパーの早期閉店など、まぁ、日常生活において多少の不便が現在進行形で続いている。
しかし、東北地方で今もなお、寒空の下、避難生活を続けている方々がいるという事実も現在進行形で続いている。
その惨状を想像すると、自分のおかれている現状なんて屁でもない。


そんな「非日常」が「日常」になりつつある。
ようするに「慣れて」きているということだ。
テレビから垂れ流されるあの惨状も。。。


平和というものは思考を弛緩させる。気をつけなければいけない。


今、「朝まで生テレビ」を見ながら、なんとなく思ったことを書いておく。

コメンテーターはいろいろいる。
そして、いつものように田原総一朗が舵取り。
ここ数年、その舵取りはまぁひどいものだが、今回はいつにもまして見ていられない。
生理的に不愉快になる。
テーマがテーマだけに、ああいう人の話しを聞かず、自分の求めているものだけを押し通すような、この番組独特のMC術がほんとーーーーーーーーうに反吐が出る。


本人は「被災地&被災者」のためになると思い、この番組をやっているのかもしれんが、コメンテーターも含めて、この状況を「楽しんでいる」ようにしか見えない。


もう「お祭り騒ぎ」なのだ。


ここ数日の都内のプチパニック。
直接の被災地以外の人々に関してだが、ただ単に「非日常」を楽しんでるのかなと。
そして無知であることに自信を持っているよね。「知らなくてなにが悪い」と。
それってむちゃくちゃおっかない。
巻き沿いくいたくねぇって思う。


そういう人たちに限って、とにかく「生」に固執しているような気がする。
当たり前のことだが、生きてりゃいずれ死ぬ。
「死」は生きている限り常に背中合わせだって当たり前のことに気づいてない。


平和だから。
生死に直面していないから。
生きていることが当たり前だから。


本当に恐ろしい。
自分の目の前にあるものしかリアルとして認識できないから、平気で買い占めもできるし、停電に文句もいう。
そして、預金額以上のお金をみずほ銀行から引き出す。
怖いです。


でもこれは、こういう「想像力が足りない連中」に限ったことではない。


今回の地震以降、私はツイッターを重宝するようになった。


そこで見るにつけ、なにかあればみなすぐに「つぶやく」
そしてそこに「反応」し、あらたな「つぶやき」が生まれる。


そんな中に私も埋没している。
一番わかりやすかったのは「プロ野球開幕問題」だ。
自分では、ひとつの意見では動かせないが多くの意見が集まれば、それが力となって開幕日を動かせるのではという信念があって、リンク貼ってコメントをつけたり、RTしたりしていたが、そんな輩がアホほどおったわけだ。


これって実は「パン買い占め」「水買い占め」「牛乳品切れ」「卵品切れ」とかと、あんまり変わらないのではないかと。


人のふりを見ながら、自分を律することを忘れないようにしたい。
どうせ死ぬなら「人として」死にたい。
パニック状態で自我を見失って、わけのわからないうちに死んでしまうなんていうのだけは、嫌だなと思う。


「日常」の中にも「非日常」は存在する。


この先、何が起こるかなんてだれにもわからないが、精神の準備だけは怠らないようにしたいと思う次第である。
人間が一番怖いよ。