milo23の『何でも食うよ。』

2020.5.25から再開。独白を綴っていこうかなとか思ったので。

「レスラー」と三沢について。その2

気がつけば、文章の中身が変わるのはいつもの悪い癖。
とはいえ、「レスラー」のことを書く前に三沢のことを書くということは必然。

なぜならば、三沢にあんなことがなければ、多分、劇場で見なかったと思うから。
それくらい今の自分には行動力がない。
毎週くるコーナーへの目に見えぬプレッシャーを悶々と抱え、パチンコやパチンコやパチンコなどの下らんレジャーに金を落とす。
もうカンペキな駄目人間。破滅。


そんな姿がシンクロするような映画でした。が、それだけじゃモチロンないよ!

以下感想。

とにかくこの映画はミッキー・ロークをキャスティングできた時点でその仕事のほとんどを終えたといってもいいだろう。
的確な感想などは、先日のダークサイド1goくんとの討論会(参加者2名ポッキリ)で語った通り。

※参照:ダークサイド1go/改めて「レスラー」
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1211450504&owner_id=4913417

酔って語ると大分饒舌で、1go曰く「あんたが日記を書くべし!書くべし!書くべし!」と獄中の矢吹丈状態になるわけですが、そんなことは知ったこっちゃないんじゃぁ!こちとら忙しいねん!てやんでぇバーロチキショウメ!

ぶっちゃけ虚覚えなんですが、まぁなんとなく書きます。(今日は暇なので)


この映画、いまどきの映画に珍しく、かなり「不親切」な映画です。

今、巷を席巻している「私、状況説明してますよぉー」的な台詞が一切ない!
これは、つまり「観客の感覚・感性に作り手いい意味で寄りかかっている」ということになります。
ようはお客を「信用している」ってことです。

昔から「人間は考える葦である」なんて言葉があるくらいですから、人間は考えるものなんです。

それをいまどきは、過剰なまでに説明・説明・説明・・・・。
説明が悪いというわけではなく、作り手が客(っていうかクライアント)にビビッて、分かりやすいように「説明セリフ」を入れているんだと思うんですねぇ。

でも、それって、その説明がなければ分からないような台本であるってことをバラしちゃっているということで、つまりは作り手が「ぶっちゃけオレ、力不足っす!」と開き直っているというようにしか見えないのです。
(先日観た「重力ピエロ」などその極み。感想書く気も起きないので放置中)

本来、いい映画というもの、いい役者というものは、そのしぐさや表情だけで、そのとき、その瞬間の状況や心境を的確に表現できるものだと思うんですよ。
あ、ということは今の役者に、その力量がないのかもしれませんな。まぁいいや。

どちらにしても、オレはそういう映画をみると途端にしらけるのです。もっとも、そんなに映画みてないけど。


今回の「レスラー」はミッキー・ローク演じるランディの晩年を描いた映画ですが、オレらプロレスものがよーく知っているオールドネームを全て混ぜこぜにした上に等身大のミッキー・ロークブレンドしたような、もんのすごくリアリティを感じるキャラクターで、その物悲しさは男の哀愁を加味して、もう、形容しがたい色気をスクリーン上にプンプン漂わせていた。あたしがオンナなら濡れるワ!嗚呼、抱いてぇぇぇぇえええぇぇーーーーッ!


そしてこの話、ココがなんといっても秀逸なのが、そのランディと併せ鏡のように存在するストリッパー・キャシディ。

彼女も年をとるにつれ、現実と向き合うことになる。

微妙に絡み合うランディと彼女。
一瞬の接点、刹那・・・。


結局、花道へ歩き出すランディと対象的に笑顔で会場を去るキャシディ。
大いなるすれ違い。
人生はこのすれ違いの連続なのだ。
もうね、ホント、このシーンが一番のクライマックスといっても過言ではない!エロイ!久々、エロい!

プロレスのシーンがかなりキチンとしているせいで、女性は敬遠気味になりがちだが、予算が増えるたびにタダのスプラッター映画に成り下がっていったSAWシリーズなんかをキャーキャー言いながら観るより、100万倍素晴らしく、リアリティがあり、そして本当の涙を流せる映画だと思う。



命あるものいつかはその役割を終える。
我々は「死ぬため」に生きているのではない。「どういう風に死んでいくか」が大切なのだ。


素晴らしい映画を、ありがとう。
そして三沢さん、ありがとう。(★5)