milo23の『何でも食うよ。』

2020.5.25から再開。独白を綴っていこうかなとか思ったので。

【雑記】現代人の色気(mixi転記)

「春雷!」
・・・とはCityBoysのコントでの一幕。


今日は生暖か小雨風舞ってましたな。
バンクーバーで氷上の妖精たちが舞っている同じころ。


そのころ私は新橋SL広場に佇む。
当然彼女たちの舞など見ることもない。


今日は打ち合わせ。
3月8日の番組のため、ある人物とお会いしてお話を伺うことになっていた次第。


その方、ある球団の会報誌を作っている方で、今度のテーマとなるその球団の「こぼれ話」などをいろいろ伺った。


元々は某有名出版社(本社:水道橋)にてその球団の担当記者だったそうで、25年も携わっている方なのですが、その方との話のほとんどが、こちらの予想通りというか期待通り、昔、特にその球団が、先日惜しまれつつ東北の球団を追われたあの監督を迎えて、4度のリーグ制覇(うち3回で日本一)を勝ち取った90年代の選手たちがとにかく魅力的だったということ。


そこを中心に番組を作れば、それで90分あっという間なのは、承知の介なのだが、そういうわけに行かない事情があり、今の選手もフューチャーせねばならんのです。


で、そっちに話を向けつつ、いろいろ話を聞こうとするのだが、やはり、今時の選手たちは、昔に比べると「優等生」。つまり「突出した個性が希薄」なのだ。って言われなくてもそうだろうと思ってたが。
そう考えたら、野球に限らず、いろんなプロスポーツ選手にそういう「突出した個性」を感じる選手が少ないような気がする。


昔の選手ってONをはじめ、豪快なエピソードが目白押し。(ONはまた違った意味ですごい話が多いようですが)
「やんちゃ」がある程度、許容されたのは、清原の西武時代くらいまでか。


いまや「優等生」でないとどこ行ってもたたかれるのが常で、国母問題や朝青龍問題なんかはその典型だといえる。
世間的に見たら「野蛮な」総合格闘技でさえ、青木中指問題を業界内でいまだに引きずっている始末。


こんな「抑圧された個性」の時代に、「突出した個性」の持ち主が現れるほうが難しい。


その方と話していてそういう結論に達し、納得と同時に、この時代ってマジつまんねぇな。と、相手の腕を折ってもいないのに中指立てたくなるほど憤りの杉並区。



「魅力あるスター」がこの国の土壌から育つには、「周りの相当な覚悟」と「己の才能への自信」がなければ、大衆が評価する位置までたどり着けない。
今、考えうるに、それを成し遂げているのは「イチロー」であり、少し前の「野茂英雄」であろうが、野茂の場合は清原世代に近いか。




「突き詰めていく覚悟」は衆人からはある種の「狂気」に見え、その「狂気」こそが「色気」に昇華していく可能性を秘めている。もちろん結果を出すことが前提だが。


感覚の問題だが、人間は本来、ものすごく醜い生き物で、それを自分の中で許容した上で、どこまで上っていくことが出来るのか。



そんな妄想をガンガン膨らませながら、どっちがインタビュアーか分からない打ち合わせが気づいたら2時間半!
途中、いろんなところに話がちらかったが、結局、今の選手の「魅力の薄さ」って、「選手たちの感覚が庶民のレベルに近いところにあるから」なんじゃなかろうかと。
憧れは、届かない存在だから憧れなんだよなぁ。。。


競技は全く違うけど、ヒョードルの絶対的強さとか、ミルコの1試合に挑むものすごい集中力とか、ああいうのを見て「色気」を感じてしまってるから、ちょっと今の特に日本人の平和ボケのぬるま湯にどっぷりつかってしまった時代感では、そういう人間が出てくることが難しいと思う。


国母くんの件や朝青龍の件にしたって、そういう「ぬるま湯国家」の体質にどっぷりつかってしまった本人、そして何より「周りの人間」の油断でしかない。精神の肥満体というか。


男子も女子もそうだけど、緊張感のある状態だと、顔つきも自然と引き締まっていい表情にもなるし、異性から好意的に見られることもあるだろう。
しかし、個人の意識の持ち様だけど、長い年月、時を過ごすことで、そういう部分が希薄になり、怠惰になり、油断をし、心身ともに堕落する。


個人レベルではいろいろあるだろうけど、この国全般の「空気感」が既に「堕落」してしまっているように思えてならない。


日常に「緊張感」を。
そして人間としての「理性」を「己の感覚」で維持すると同時に、個々が持つ「色気」(この場合「野生」ともいえる)をもっと見直せば、今のまったりのほほん茶な「空気感」は多少引き締まり、スポーツに限らず、いろいろなものの「意識」が底上げされていくような気がするんです。(電車内で床に座っちゃうとか、人にぶつかっても謝んないとか)


この方とのお話で、そんなことが頭をよぎり、こんな長文となってしまいましたが、どうでしょう。
そして、こんなこと書いてる自分も、実際、どうでしょう。
漠然とあった世の中への憤りが、自分としては明確に見えたような気がします。


他人はいっぱいいるけれど
まずは、自分からです。