milo23の『何でも食うよ。』

2020.5.25から再開。独白を綴っていこうかなとか思ったので。

「他者との関係性」(25:00頃改定)

今の世の中って基本的には「自分勝手な人が非常に多く、わがままを通したほうが得である」というような風潮だと私は思っている。なぜなのか考えてみた。もともとこんな話になったのは、昨日、友人が「会社で先輩やらなにやら、他の人の顔色を伺い過ぎて、何をやったらいいのかわからない。どう、同僚と接していいのかわからない」といったような話から始まったのだが、要は他者との距離感がその友人的に把握できていないことが原因なんじゃあなかろうかと私は思ったわけです。人間誰しも他人には嫌われたくないと思っていると思うが人間には当然いろんなタイプがあり、相性って必ずあると思うんですよ。
ぶっちゃけ、他者が何を考えているのかなんてホントのところわかりっこない。それでも理解したいと思うのが普通の人だと思うのだが(毎日会うわけだし)そんなこと辞めちゃえと。さっきも言った通り、人の考えてることなんてわからん訳だから、自分がどういう人間で何を考えているのかをはっきりと打ち出していけば自ずと、相手が適度な距離感を取ってくるもんです。それを見て相手との距離を見極める。そうでないなら相手の顔色をうかがうような受身な姿勢ではなくって、その他者(相手)が自分にとって必要な存在であれば自分から距離を詰める。不必要ならば最低限の関わり以外持たない。人の気持ちは移ろいやすいものなので、当然のように他者との距離感は常に一定ではないのだから、やはり、自分の立ち位置をしっかりと定めることが大事なんじゃないだろうかとぼんやり考えた次第です。
開き直りと潔さ、思い切りの良さだと思うんです、私。そのほうが他の人が見てもきっと楽しかろうと。楽観的に勤めてアーパーで行こうと。そんなことを考えながらまた別のことを思い立った。ここまで書いて来たことを読み返してみても何のことやらさっぱりですな。んー、ダメじゃん。
要は「人付き合いぐらいでビクビクすんなよ!行けば分かるさ!ダメならしゃーねーじゃん」ってことです。なんだ、、これでだけでいいんだ。アホか俺。
最初に触れた「自分勝手な〜得である」ってことは人として非常に問題があると思う。そうすると今まで長々書いてきたことと矛盾しているようにとれてしまう可能性があるので補足すると、これまで出てきた「他者」は自分の日常生活において近しい方々(家族、恋人、友人、同僚、上司、先生、近所の人など)を差している。彼等に対して遠慮してしまうと言うことは、実は彼等のことを信用していないってことになるんじゃないのかな。それでは、距離はつまってこないやね。もちろん「親しき中にも礼儀あり」ですが、まあ、最低限の分別をもっていれば大抵、なにやっても許されるもんだと思います。
ところがこれがまったくの他者(面識が無く自分にとって全く関係性の無い人)に対しては自己より他者を取るべきだと思う。関係性の無い人だからといって粗相をしたことに対する謝罪をしないとか、自己の利益を優先することで周りの人間が迷惑を被るようなことは『普通』の感覚なら自分が受けたら不快に思うことってやらないもんだと思うのだが、最近、そういうことに意識が行かない、そう言うことを考えられない人間が増えてきているんだと思う。それは何故なんだろうか?
そこで私は、幼少期に人との関わりあいを指導し導いてくれる人間がいなかったのではないだろうかという推測にいたり、それこそが今の、今時の日本社会における精神的病巣の根源なんじゃあなかろうかと思った次第である。
旧来、日本の家庭の風景では、母親は家で家事をし子供の面倒を見る。一方の父親は日中家族のために懸命に働くというものだと思う。テレビも一家に1台あればよく、そのチャンネル権は当然、家長である父親が握っている。文句を言いたくても文句を言えないし、言わせないのである。そこで父親によって我慢することを教えられる。一方母親は、言い方に語弊があるが常に子供を監視下に置き、善悪の区別のつかない内に良く無いことをした子供に対し、指導、教育し、適切な判断力を身に着けさせる。といった段階を踏まえた上で、学校という集団生活において、自己と他者との関係性を今までの経験を元に今度は自分の判断で行動していく。ここで不適切な行動に出るような時に教師、学校側が指導をする。っていうシステムで子供達の人格を形成していったと思うんですよ。(当然、学校ではいろんな科目を子供達に紹介し、伝えることで、子供達の将来への可能性を導くということもしているわけです)
それに附随して、地域住民(本来ならば赤の他人)も子供達を指導、教育し守っていたと思うのだが、日本が経済的に豊かになって来た当たりから、住宅ローンや物価の高騰、学歴重視社会による教育費のさらなる出費など、生活水準向上のため、母親も働きにでるようになる。それによって、人格形成の上で重要な初期段階、親が子供を指導、教育する時間が極端に減ってしまう。子供達に不要であり、のちに有害となるであろう情報も簡単に彼等に届いてしまう。ネット社会では尚更だ。子供は好奇心の固まりだし吸収力も優れている。いままで、水際で防がれていたものがテレビを主とするメディアによってノーチェックでダイレクトに届いてしまう。良いことも悪いことも。善し悪しの分別が着かないまま「新しく面白そうなもの」として真似をする。その行為が一般的に悪いことにあたるならば、親、もしくは周りの大人たちは当然怒るわけだが、そこに行き着く過程を見ていないため、結果(悪いことをしたという行為について)のみを否定し正そうとする。でも、子供はどうして行為が良く無いのかの判断材料が自分の中にないわけだから、いくら怒った所で理解ができない以上、効果が無い。彼等にとって楽しいもんは楽しいのである。それの繰り返しにより両者の溝は深まっていき、親は子供が、子供は親がなに考えているのかわからず、分からない以上話すのが恐くなり結果、会話も殆どなくただ同じ屋根の下に済んでるだけという状態になる。(全部がそうだとは当然思わないが程度に差があるとはいえだいたいにたようなあもんなんじゃあなかろうか。)親でも恐いんだから、血のつながりが無く、普段の様子を知りえない教師やほかの他者が指導、教育できるわけが無いよ。何されるか分からんもん。
そうして世代を重ね、今のような分別のつかない輩が増えて来たんじゃ無いのかなと思ったわけですが、よくよく考えたらこんなこと、どーでもいいよね。ただ、俺の邪魔だけしないでくれ。
いや、そうじゃなくって、結局、なにが言いたかったのかと言うと、凄く要約すると「もっと日常に思いやりを!」です。あと、子育てとは『他人様になにか迷惑をかけるようなことがあったらわが子を殺して自分も死ぬ』!ぐらいの覚悟をもってやらないといかんもんなんだろうなぁと、上記の文章を打ちながらぼんやり思った次第です。変な所で両親に感謝したくなりました。とりあえず、母の日にはカーネーションを送ります。(なんのこっちゃ)